2015/08/06    10:55

幕末からの日本の危機感 ―大東亜戦争へ― 日清・日露戦争  日露戦争②

日露戦争に至る経緯を説明いたします。日露戦争の背景にはロシアの覇権主義に基づく清(とりわけ満州)さらには韓国への侵攻が日本の安全保障を脅かしたということがあります。

このきっかけとなったのが1900年の義和団の乱から広がった北清事変です。義和団の乱から北清事変にいたる経緯の背景としては、三国干渉以降の列強による清の「生体解剖」があります。始まりはロシアが三国干渉(日本に圧力をかけ、日清戦争で得た遼東半島を清に変換させた)の代償として露清秘密協定により、ロシアが清から、満州を横断しシベリア鉄道と繋がる東清鉄道の敷設権を得たことにあります。これに続きドイツは、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害されると(婦女暴行殺人の凶悪犯を宣教師が教会に匿ったため、憤慨した清の秘密結社に殺された)、軍艦で膠州湾を占領し99カ年の租借権等を獲得しました。実は、ロシアの遼東半島の旅順、大連租借も、このドイツの動きに乗じて行われたものです。しかも、その名目は「他国の侵略から清国を保護する」です。ちなみに、この「他国」とは日本のことです。

さらに、清の「泣きっ面に蜂」状態は促進されます。フランスは1898年、広州湾99カ年租借権等を、イギリスは同年、九龍半島の99カ年租借権と威海衛を獲得しました。また、日本も福建省に権益を獲得しました。「清国が日本を掣肘するためロシア等に援助を求めた三国干渉は清国自身に大きな代価を払わせ、その上、日本を含む東亜全域を大きな禍乱に巻き込む結果となった」(岩間弘『大東亜解放戦争』上)のでした。

義和団の乱は宗教的秘密結社による排外運動です。彼らは義和拳という中国拳法を使いました。

本来漢民族が中心で(清朝は満州族)、「滅満興漢」(満州族=清朝を滅ぼし、漢民族の国を興す)を唱えていましたが、列強の「生体解剖」に対抗する一大愛国運動のために清朝に協力したのでした。義和団は1899年、「扶清滅洋」(西洋人を滅ぼし、清朝を助けよう)をスローガンに山東省で排外運動を展開しました。

1900年に入るとその活動は、河北省、山西省、満州にまで及び、キリスト教徒の殺害、教会、鉄道、電線などを破壊しました。さらに義和団が北京にはいると、本来暴徒の取り締まりを行うべき西太后(甥に当たる光緒帝の後見人として実権を握る)は、義和団の勢いに乗じ国権を回復しようと考え列強諸国に宣戦布告をしました(北清事変)。日本を含む在北京の列強公使館は義和団と清国軍に包囲され、各国の外交官、民間人、キリスト教徒などの籠城も限界となりました。

列強諸国からは、現地北京に一番近い日本からの出兵が期待されていました。清に対する他国からの疑惑を招くことを危惧し、慎重な態度を取ってきた日本でありましたが、イギリスなどからの度重なる出兵要請に応え、第五師団を派遣しました。他国軍を合わせた8カ国の連合軍は、義和団と清国軍の包囲から公使館内の人々を救出しました。付け加えれば、各国公使館内の人々の救出の中心となったのは日本軍でした。イギリスの新聞はこのことに関して「列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれたのはひとえに日本のお陰である。日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」としています。

北清事変終結後は、1901年に諸外国11カ国と清との間で北京議定書が調印されました。これにより、各国は賠償金の支払い、清の12カ所地点の駐兵権と北京の分割管理権を清に認めさせました。北京の分割管理では、柴五郎中佐(当時)を中心とした日本軍の軍記粛正が徹底しており、日本区域は治安維持が特に優れていました。これに比べて他国区域の治安は、その軍隊の非行により悪かったのです。特にひどかったのがロシア区域であり、域内の住民は男が殺され、女が強姦されるなどの犯罪行為や暴行・略奪なども頻発しました。北京市長が、その区域の管理を日本に受け持ってもらえるよう哀願したほどです。他国の管理区域から日本区域へ逃げてくる北京市民が多数いたと言われています。このような日本軍の武士道精神と公使館解放における貢献が、イギリスの評価をもたらし、日英同盟締結(1902年)に結びついた面があります。

日本軍の出兵の前には次のようなことがありました。「当時、日本大使館二等書記官として北京籠城を経験した石井菊次郎の回想によると、ロシアは、満州占領の口実を得るため、籠城者(ロシア人)が(義和団及び清国軍に)殲滅されることを望んで居たので、日本に対する救援要請を事ごとに妨害したという(日本外交秘録)」(岩間氏前掲書より)。自国民を犠牲にしてでも領土拡張を目指すロシアの恐るべき本性を示す証言です。

日露戦争は、義和団の乱から北清事変に至る中でのロシアの満州及び韓国への侵攻及び鉄道・軍事拠点の建設が引き金となっています。すなわち、義和団の乱が満州に及ぶとロシアは満州全域を軍事制圧しました。その際に多数の清国民を虐殺したとの記録があります。また、北清事変終結後も満州に軍隊を止め、さらには韓国の龍岩浦(鴨緑江南の黄海側)に軍港を造るなど南下を進めました。日本の抗議には応じることなく、かえって日露協商会議(1903年)では北緯39度線以北の朝鮮半島のロシア支配の承認をもとめる有様でした。ここに、日本は対露開戦を決意することになります。

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